韓国の大学教員一年生が驚いたこと

韓国では、学期が終わった。

いたらないことが多い中、まわりの先生方や生徒さんには本当にお世話になってばかりで感謝しかない。ゲスト講義をしてくださったみなさんにも感謝。来学期も、ゲスト講義やオンラインでの授業交流に興味があるよ!という方がいれば是非ご連絡を〜。

と、同時に、コロナに翻弄された韓国での新人教員一年生が終わった。

「夏の間にいろいろと頑張らないと!」という感じなのだが、アメリカの大学院を出たあと、韓国にやってきたわたしが韓国の大学について驚いたことを少し書いてみようと思う。


以下は、韓国の大学にくわしいみなさんなら常識のことだろうし、日本の大学にくわしい人からしても、たいして驚きはないのかもしれない。わたし自身が実際に体験してみたらびっくりした、という話なのでつまらなくてもご容赦を。

①授業が長い

他の学校はどうなのかわからないが、わたしの担当している授業は学部も大学院も各授業が週に1回、3時間と長い。

人生最長である。

平時であれば、教える側も、生徒さんも週に何回も学校に来なくて良いとか、動画をみたり時間がかかったりするアクティビティができる、というメリットもあると思う。しかし、オンライン授業では、できるアクティビティの種類が限られている。

そんなに長時間、講義を集中して聴くのは不可能だし、アクティビティもディスカッションが中心になりがちで、お互いにとってつらい部分が多かったと思う。

②学期が長い

わたしが大学院でいったハワイ大学はいわゆるセメスター制(2学期制)で、日本での学部時代(3学期制)にくらべると、本当に学期が長いなと思っていた。

しかし、ここはさらに長くて1学期16週間。

コロナでなければ、学期の半ばでいろいろと楽しいことをやったり工夫したりできると思うのだが…(上記参照)、お互いにつらい部分が多かったと思う。まぁ慣れの問題なのかもしれない。

③学食は美味しい

同窓のみなさんはわかると思うが、わたしが日本で卒業した大学の学食は本当にまずかった。おそらく日本一ではないか。

ハワイ大学の学食はそこまで悲惨ではないのだが、肉と米とたくわんだけがギュウギュウに詰めこまれたドカベンのような弁当が1,000円とか、金銭感覚がいつまでたってもデフレジャパンスタイルの貧乏人ことわたしにとっては、「うーん」という感じであった。

それらと比べると、ここの学食は素晴らしい。

狭いキャンパスなのだが、「学生食堂(誰でも入れる)」と「教授食堂(誰でも入れる)」があって、「学生食堂」では、日替わりでハンバーグとかチーズとんかつとか、マンガの中の大学生が食べてそうなご飯が3,500ウォン(約350円)。

「教授食堂」では、教授の社会的イメージを体現したおじさんっぽい定食が5, 500ウォン(約550円)で食べられる。

学生食堂のチーズとんかつ

教授食堂のチーズとんかつ

今年の1月1日から、しれっと50円値上げしていたのだが、材料費の高騰と、近隣住民がみな食べにくるせいらしい。

④成績は超真剣勝負

みなさんご存じだと思うが、韓国の大卒の若者にとって、就職は非常に厳しい。

その背景は複雑である。

いくつか例をあげるとすると、

  •    韓国では、1997年の経済危機のトラウマがあったり、大企業正規職や上級公務員とそれ以外の仕事の待遇の差が大きいこともあって、大企業志向が強い。
  • 大卒率が高く、学歴のインフレ化が進んでいる。
  • 「大卒3年以内に就職しないと不利になる」といわれる日本と比べると、卒業が遅れることによるペナルティが軽いため、自分より上の年齢の「就職浪人」の人たちとも競合しなければならない。

などなどである。

そして、日本と違って就職の際には成績も重要。それゆえ、大学の授業は真剣な競争の場である。

アメリカのように絶対評価のシステムであれば、みんなが良い成績をもらえるだけの努力をしているのだが、基本的に相対評価なので、そうはならない。

わたしのところでは、わたしが見ている限り、みんな和気あいあいと楽しく授業が出来ているので本当に幸いだが、他の大学の競争的な学部では、自分が優秀なだけでは望むような成績を確保するのが難しいので、どうやって他の生徒を蹴落とすか、ということを考えている学生が多く、バトル・ロワイヤル化しているところさえあると聞いた。

わたしが大学院でTAをしたり講師をしていたときには、生徒さんのバックグラウンドが多様だった。そのため、真面目にやる人もいれば、最低限パスできればいいやというモチベーションの人もいた。やる気の低下で脱落していくひともいれば、本当に悲しいことだが、生活の大変さなどで授業に来なくなってしまう人も少なからずいた。

つまり、学期末になると、自然と成績に分散が出ていた。しかし、ここではほぼ全員が真面目にAを目標にしていて、みなさん非常に優秀。全授業に出席し、全課題を提出するのはもはや当たり前のことのようになっている。

コロナの影響で、この一年は絶対評価だったのだが、次の学期は相対評価に戻るらしいので、どうしたら努力した人がその分だけ報われる成績評価をできるか、いまから心配している。

⑤研究の成果主義の基準

大学の教員の仕事というと、授業を教えるというイメージが一般的だと思う。

それは事実なのだが、今のわたしの仕事では、授業を教えていること自体は当然というか、あまり評価の対象にならない。研究の成果のほうがみられている。

そして、その成果の「良し悪し」をどのように規定するかという基準も国や大学によって異なる。

わたしは、アメリカの社会学のしかも一部しか知らないので一般化は控えたいが、アメリカの社会学の業績評価では、質も量も大事で、なおかつそれは自分がどういう大学に勤めているか、どういう分析手法を専門にしているか、といったことともゆるく関係している、という印象を勝手にもっている。

ひたすらトップジャーナルを目指して一つの論文を何年も温めて書く人もいれば、共著などでバシバシと論文を出しまくる人もいて、両方とも評価されている印象。

一方、ここではとにかく量、量、量。「すたみな太郎スタイル」である(全然伝わらなそうなたとえ…。)

ジャーナルの「格」によって点数が決まっていて、人によって違うがノルマがあったり、逆に報奨金がもらえたりする。その「格」の決め方は、どこのデータベース(?)に雑誌が採録されているか、ということでおおむね決まる。SSCIとか、SCOPUSとか、そういうやつである。

これまで、そんなことは気にしたこともなかったので、すこし驚いた。

SCIとかSSCIというやつが社会科学の中では一番「格」が高いらしい。そうはいっても、SSCIの中にも業界トップ誌もあれば、聞いたことのないような雑誌も採録されている。そしてそれらは、結局似たような点数になる。このシステムだと、「本当にいいものをつくろう!」というインセンティブにはつながりにくい気がする。

なお、本を(どの出版社から)出版しても、結局SSCIの上位ジャーナルの論文一本と同じ点数しかもらえないので、本を出版するメリットもあまりない。

ちなみに、このやり方にポジティブな面もあれば、ネガティブな面もあるというだけのことで、これが良いとか悪いとか言うような立場にわたしはないし、そういうことを言いたいわけでもない、ということも付記しておきたい。

次回はもっとおもしろいことを書きます…

ひさびさに大学のどうでもいい話を書いてしまった。

次回はもう少し楽しいことを。

最近は、ソウルの自転車道の素晴らしさを発見して、毎日自転車に乗っている。それゆえ、この夏は自転車でいろいろとまわり、自転車道から考えた東アジアの環境政策のゆくえについて書く予定だ。

それはまったくの嘘だが、自転車旅行について書きたい。

最近行った慶州のお寺

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