恐怖の試験、Comps(コンプ)への「最低限アプローチ」
アメリカの博士課程の中でも、おそらく一番恐れられているのが、Comps(コンプ)やQualifying
Examと呼ばれる専門分野の試験だ。
コンプとは、自分の専門分野の必読の文献を読み込み、エッセイ形式の質問に答える試験だ。
限られた時間で、膨大な量を書かなければいけないこと、パス/フェイルで評価が明確なこと、2度失敗したら大学院追放になることから、多くの大学院生のプレッシャーのもとになっている。
吉原真理先生の『アメリカの大学院で成功する方法』によると、アメリカ人の学生のほとんどにとって、「一つの試験のためだけにこれだけ集中的に大量の勉強をするのは初めてなので、かなり大騒ぎをする」(p.84)そうだ。実際、みんな笑っちゃうくらい大騒ぎをしている。一方、日本の試験社会サバイバーのみなさんにあっては、なんということはないのかもしれない。
同じ学部のRさんがコンプの準備をしていて、「コンプについてブログに書いたらいい」と先日言われたので、「マジ?」とは思いつつも書いてみることにした。(コンプについての実際的なアドバイスは、吉原先生の本にいいことがいろいろと書いてあるのでそちらを参照。)
僕のような怠惰堕落型人間は、コンプだろうがなんだろうが、とにかく最低限の努力しかしたくない。しかし、そのためには、多少の工夫が必要である。これを「最低限アプローチ」と呼び、ブログの後半で、いくつかの例をあげる。
大学院システムのおさらい
まず、大学院の流れがわからないと、コンプの位置づけがわからない。マノア社会学村の場合:
1〜2年目:コースワーク①
↓
2年目の終わり:Qualifying Review→MAもらえる
↓
3年目以降:コースワーク②
↓
3年目以降:Comprehensive Exam(コンプ)←ココ!
↓
3年目以降:博論プロポーザル
↓
3年目以降:博論
↓
卒業
実際にはみなもっとたくさんのコースを取るが、最低で30単位を取得した時点でコースワーク①修了となる。一学期にとるのは普通9単位なので、ここまでにだいたい2年がかかる計算となる。
次に、Qualifying Review(QR)と呼ばれる論文の審査を受ける。
教授3人からなるコミッティーに2本の論文を読んでもらい(最近1本になったらしい)、その3人の先生たちからOKがでた時点で、別の3人組の先生からなるコミッティーが論文を審査する。匿名の3人の評価の平均が5点満点で3点以上なら合格。
その後、追加で授業を履修するのだが、TAやRAをやるためにはフルタイムの学生でないといけないため【毎学期6単位=2授業】、しばらくは皆授業をとり続ける。
恐怖のコンプ
マノア社会学村はゆるいノリなので、2つの分野を選び、それぞれの分野で代表的な論文や本など、各50アイテムほどのリストを作成する。僕の場合は、社会階層論と不平等、あとグローバリゼーションの社会学という二つの分野で試験を受けた。
人文系だとハワイ大でも1分野200アイテムとか読むそうである。社会学でも、バークレーは5分野とかとんでもないことになっている、と聞いた。あくまで伝聞なので確認は各自で。
マノア村では、先生たちと相談しながら自分でリストを作る。これも学びのプロセスの一貫なのだそうだ。リストを自作すると、自分ではすごく大事な本や論文だと思ったのだが、読んでいくうちに、「あ、この本あってもなくても、エッセイの内容に全く影響ないな(爆)」というモノがでてくる。
リストをつくったら、数ヶ月から1年くらいかけてそれらの論文や本を読み込む。
数十から数百の論文や本を読んで記憶しなければいけないことから、人によってはかなりの恐怖を感じるようだ。本当に1年くらいソーシャルライフから一切身を引き、閉じこもって勉強する人もいる。
僕の場合、博士課程2年目、2016年の3月に最終のリーディングリストをコミッティーに提出して、その学期と夏の間はハワイにとどまって勉強した。同じ年の10月にライティングの試験を、11月ごろに口頭試験をうけた。
コンプ3日目に何が起こったか
いよいよ試験の週。
マノア社会学村では、試験の週は、月曜日の朝に学部のオフィスに行き、8つの質問が印刷された紙をもらう。そのうち4問に、各20〜30ページくらいの回答エッセイを書き、次の月曜の朝までに提出する。
大学や学部によって違うのだろうが、うちの学部では、質問出題者である先生たちと事前に話をして、なんとなくどんな質問を聞くつもりか探りをいれておく、いわゆるNEMAWASHIができるし、大切だ。
コンプの週は、ライティングのみに集中するため、食べ物を前の週に全部用意しておいたり、その週の仕事は友達に頼んで全部キャンセルしたりする。ホテルに泊まりこんでルームサービスでしのぐ、というセレブスタイルの人もいる。
僕の場合は、当時の彼女が一週間、毎日ご飯を用意してくれたので本当に助かった。
もらった8問の中には全く答え方がわからない質問もあって、「まいったな…」と思ったが、見なかったことにして、答えられそうなやつに集中。7日間あるので、最初の4日に1日1問ずつ回答を書き、残りの3日でリバイス・書き足すというのがわたしの計画であった。
1日目は階層論の問題①に取り組む。これは、なんとなく出ることを予想していた質問だったのでいけた。2日目は階層論の問題②。思ったより手こずり、あまり納得がいかないまま一日が終了。
さらに、3日目にやるはずだったグローバリゼーションの問題①が、思っていたよりもかなりざっくりした質問で、答え方がよくわからない。
いつも怠けているのに、連日夜中まで頑張ったこと、ペースの遅れ、翌日以降の見通しが立たないことで、2日目の夜にストレスが爆発した。
「毎日、ある時間になったらエッセイが終わっていなくても、酒を一杯飲んで寝たほうがいい」というパイセンからのアドバイスを真剣に実行していた私(特に酒を一杯…の部分)、一杯ではリラックス度が足りないと「最大限アプローチ」を採用、ワインを1本くらい飲んでいい感じに酔っ払った。布団もかけずに寝た。
翌朝起きると、頭がめちゃくちゃ痛い。飲み過ぎた…。しかも寒い。寒すぎる。風邪か?
なんとかコンピューターに向かうが、どんどん具合が悪化してきた。北極でもこんなに寒くないんじゃないか。エッセイどころではなくなってきた。熱を測ると40度近くある。ご飯も食べられず「我ながらさすがにバカだな〜」と思いつつ、この日は一日寝込んだ。
貴重な一日を失態によって失ったが、幸いにも翌日には復調。この週初めてキャンパスの外に出て、散歩がてらタイ料理を食べにいった。
残りの3日で、サービス問題っぽいグローバリゼーションの問題②を含む、4エッセイを完成させることができた。エッセイを学部に提出した朝の開放感は忘れられない。
口頭試験で「うっ…」
エッセイを提出してから2〜4週間のあいだに口頭試験がある。
5人のコミッティーメンバーがエッセイの内容を基にアレコレと質問をし、それにアレコレと応答する儀だ。この種のミーティングは生徒自身がアレンジするのだが、先生たちは忙しいので、5人同時に集える時間を探すと、一ヶ月とか先になってしまったりする。
恥をかく可能性もあるし、口頭試験はプレッシャーが結構ある。しかし、エッセイはもう提出してしまっているので、内容は変えられないし、ここまできたらどーんと構えているしかない。
サウンダースホール247号室の社会学部のオフィス内にある、黄緑色の変な趣味の油絵が飾ってある狭いミニ会議室につどった5人の先生たちと、緊張に震えるあさひな。
僕のコミッティーの先生たちはみな優しいので、階層論の問題①と②は、結構いいよ、ちゃんと書けてるという評価で、質問にもある程度答えられたと思う。
問題は、泥酔事件の引き金ともなったグローバリゼーション①である。回答の中でこれが一番イマイチだ。案の定、この分野が専門のマンフレッド・スティーガー先生から、考えていなかった質問をされて「うっ…」と泡を吹く。
あちゃ〜と思いながら、「ペラペラペラペラペラペラペラ、ペラペラペラペラペラ」と自分でも何を言ったかあまり覚えていないが、しゃべり終えた後に、「やばい失敗した、こっちの方向じゃなかった」と、思った。
先生たちも「フーン」という感じであまりリアクションが芳しくない…。ありゃりゃ…。
その後、部屋から追い出され、先生たちの熟議タイム(博論や修論の審査もこういう感じ)。
「やっちゃったな〜…」と、学部のオフィスの椅子にみじめに座っていたら、指導教官の先生が出てきて、「パスしたよ、おめでとう」と言われた。
最後の質問にうまく答えられなかっただけに、あまりに唐突な幕切れに「へっ?」と唖然としたが、終わってみると非常に爽快な気分というか、「なにはともあれ、パスすりゃぁこっちのもんよ」と思った。
うまく答えられなかった質問については、今でも考えている。博論の中でも触れるつもりなので、失敗には、失敗の意味があったと思いたい(前向き)。
最低限アプローチ
僕の場合はゆるゆるやってるので、たいして参考にはならないが、なにも教訓がないというのもゆるゆるすぎるので、いくつか思ったこと。
コンプに限らず、なぜか大学院生は完璧主義的傾向が強い人が多いように思う。「完璧を目指すのはいいことだけれど、自分で自分の人生むずかしくしてない?」と、しばしば思う。
むしろ、ここでは、あくまでプラグマティックに必要最低限の努力しかしない「最低限アプローチ」をオススメしたい。
パスすることのみが重要
何事においても、自分が納得できる結果を残せるよう頑張ることは大事だとは思う。
この線で考えると「コンプから何を学ぶか?」みたいなまじめな方向に話は行きがち。しかし、試験なんておおむね馬鹿げているのであって、大事なのはパスすることだ。
コンプの回答なんて、現世のうちにはコミッティーメンバー以外の目に触れることはない。しょぼい回答でもパスはパス、いい回答でもフェイルはフェイル。そして、それを誰か他人が知ることもない。
どれくらいいい回答をしたとか、しないとか、というのは自己満足の範疇であって、そのためにどれだけの時間なら使ってもいいか、という問題である。
コースワークは戦略的に
コースワークの2年間を戦略的に使えば、コンプはそれほど難しくないと思う。特定の専攻分野の歴史や成り立ち、主要な雑誌や論文をすでに読んでいるので、コンプの時にはそれらを読み直したり、足りないモノを追加で読むだけでいい。
無理に挑戦せずに、自分が一番自信があって、比較的楽にパスできそうな分野でうけるのがいいと思う。
自分なりのノートの取り方が大事になるので、コースワークの時から自分にとって使いやすく、探しやすいノートの取り方を確立しておくと便利。僕はコンプに限らずフィールドノートとかも全部OneNoteを使っている。
大事なものとそうでないものを分ける
前述のように「あれ、これ必ずしも引用しなくても書けるな」というような論文や本はザックリとしか読まない。レビューやそれらを要約してある教科書、ブログなども活用する。もしくは、読まない。絶対に必要なものは失敗できないので、時間をかける。
パスできるコミッティー①
コミッティーメンバーに裁量権があるので、コミッティーは大事。
まず、先生同士のポリティクスはバカにできない。もし、コミッティーメンバー同士の仲が悪かったら、自分のコンプが、自分には関係のない争いの戦場になってしまうかもしれない。
たとえば指導教官の発言権が、コミッティーのなかで相対的に弱かったら、ネガティブな影響を被ることもあり得る。
パスできるようなコミッティーを持つことは大切。
パスできるコミッティー②
コンプはわれわれが思っている以上に、総合的な試験ではないかという気がする。
ここで見られているのは、回答の内容だけではなくて、コミッティーから見た、学生の学者になるための素質とか、努力の程度の総合評価に近くて、もちろんエッセイの内容はそれ単体として大事だが、同時に、落としたいときに落とす「口実」でもあるのではないか、というのが私の仮説。
つまり、普段の自分の振るまいや言動もコンプの評価に、一定程度の影響があると考えた方が安全だと思う。
そうだとすると、試験をうける前からある程度結果は予測できる。もし、自分のコミッティーが自分の能力に疑問を抱いているようだったら、そのレベルを満たすためにより多くの努力が必要になるため、より好意的な先生にメンバーを変更することを考えた方がいいと思う。
コンプの難しさを過大評価しない
単純な事実として、ほとんどの学生はコンプをパスする。もしパスできなくても、死なないし、人生の終わりでもない。必要以上にビビるのは精神的にも、大学院でのプログレスにも悪影響である。
二日酔いにならない
二日酔いになると、しんどい。そのうえ、コンプ中の貴重な一日を布団の中で過ごすことになってしまう。すべての過剰は「最低限アプローチ」に反する。
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