脱落率2分の1の裏側:大学院やめたら悲惨?
2分の1
アメリカで博士課程に進む学生の2分の1ちかく(厳密には2分の1ではないが)は、博士号をとらずに大学院を去るという。
海外出身の学生の場合や女性の場合(人文・社会科学系に限る)、修了率は少し上がるらしいが。
博士課程にいくということは、基本的に、博士号が欲しいということである(中には、最初から取るつもりがない変わり者もいるとは思う)。つまり2人に1人が最初の目標を達成しない。
これは結構恐ろしい数字だ。いま自分が「博士課程に行って、○○(教授とか先生とか政治家とかいろいろ)になるんだ!」という意欲にあふれていたとしても、ざっくりいうとその目標が達成できる確率は2分の1、という具体的な想像を可能にするから。
僕も、大学を卒業するとき、結構この数字が気になった。
仮に大学院が、半分の学生をふるい落とすほど競争の厳しい場所だったら、自分は生き残れないだろう。だとすると、貴重な数年間を無駄にする可能性が高い。
僕は、「競争の結果、半分は失意のうちに大学院を去る」というイメージをもっていたことになる。
しかし、必ずしもそんなことはない、ということをここ数年のあいだに発見した。
やめる動機というのは複雑で、たしかにお金がもらえなくなって失踪する人は多いが、その場合でさえ、後悔という感情につながるかは、人によってばらつきがある。
他にやりたいことが見つかったとか、家族と一緒に住みたいとか、アムウェイにはまっていなくなるとか、「人生いろいろ〜♪♪」である。
本当にそんなにやめるのか?
体感的観測としては、2分の1という数はかなり事実に即していると思う。
僕と同じ年に、ハワイ大学マノア社会学村に来た博士課程の学生は4人しかいなかった。
同級生たち(博士課程)は、今日までに全員やめた。逆に、修士学生5人のうち4人が博士課程に進んだ。他の学年や、同じ寮に住んでいた他学部の学生を見ていても、似たり寄ったりである。
ちなみに、僕の学年の博士学生はなぜやめて、何をしているかというと。
アニキとルームメイト
僕が大学院の初期にとてもお世話になったアニキという人がいる。アニキは中国出身で、アメリカの他の大学で修士号をとってからハワイにやってきた。当初、すごく期待されていて特別な奨学金をもらっていた。
しかし、社会学にあまりなじめず、苦悩していた。このへんはなんともいいようがないが、能力の問題ではなく、ものごとの考え方や政治的思想、振る舞い方が社会科学系にいる先生や学生と全然あわなかった。
僕とアニキが共にお世話になっていた先生も、アニキのことを心配していて「頭はいいし優秀だけど、社会学には向いてない。ビジネススクールに行った方がいい」といっていた。一時期この問題を巡って、二人は険悪なムードであった。
結局、アニキはハワイ村をやめて、中西部の別の大学の社会学部に行って、そこの博士課程で数年がんばったのだが、やはり社会学にはなじまなかったらしい。
しかし、その間に、社会学部で働きながら、同じ大学で統計学の修士号をとった。1年くらい仕事を探して苦労していたが、最近アメリカの超大手の金融機関からデータ・アナリストとして採用されたらしく、喜んでいた。
僕もうれしい。
アニキには惑星科学みたいな難しいことを勉強していたルームメイト、Gがいた。Gはまさに聖人で、よく一緒にサーフィンに行っていた。その彼もアニキが去った1年後にやめた。
Gの場合は、指導教官があまり面倒見のいい人でなくて、なおかつインド出身の方で文化的・言語的な問題がかなり大きかったようだ。ハイキングをしているときに、「全然話が通じないから、ヒンドゥー語を勉強しようかと思ってる」と真剣に相談されて、ちょっと笑ってしまった。
それに加えて、家族の問題や、自分の奨学金の返済などの心配も重なり、ハワイを離れることにした。
カリフォルニアに移って、以前在籍していたNASA系の研究機関で働いているが、仕事は楽しいという。給料も全然いいみたいだし。落ち着いたら近くの大学院に編入したいといっていた。
やめるのは悪くない
やめる理由は様々。
体感的には、一番多いのは、生活苦である。もしくは、「向いていないと思った」というケースや指導教官の問題、またはそれらのコンビネーションの気がする。
辞めたとしても、大学院で学ぶことによって、幸せになる場合もある。もし「向いていない」なら、それはそれで、「自分がどういう人間なのか学べた」というポジティブな側面もある。やめても、自分が希望するような仕事が見つかっている人は多いと思う。
2分の1という数字からは、こういう細かい事情は読み取れない。けれど、大学院をやめたからといって、誰しも挫折感を感じていたり、不幸になっていると考える根拠はないと思う。そういう思い込みをしていたのは、もしかしたら僕だけかもしれないが。
近頃の若年層の労働市場の流動性は高くて、転職を経験している人は多い。加えて、20代の後半とか30代の前半とかになると、「自分の人生の意味」を考えるようになる人が多い。
大学院にいる人は、ちょうどこれくらいの歳の人が多い。
今やっていることをやり続けて、本当に意味があるんだろうか、ということを考えるのは大学院生だけでない。たまたまそういう時期を生きているのだと思う。それに加えて、大学院にいると考え事をする時間がたくさんあるので、考えすぎてしまう環境にもある。
やってみないとわからない部分が多いのに、まわりのひとが、大学院に行こうとする人にやたらと、進学をやめるよう言うのは謎だなと思っている。これを大学院不幸言説と呼び、これに、たとえば2分の1というような数字が根拠を与えるが、これについてはまた別のところで。
大学院にいくことによって、つけない仕事というのはでてくるが、逆に可能になる仕事というのも出てくるし、「大学教授一直線」という感じで肩肘張る必要はないのではないだろうか。そこで学んだことを生かして、できることをやればいいし、と僕はのんびりしているからそう思うのかもしれないが…。
歳が早いうちに始めれば、途中でやめるという選択肢がある。
実際に来てしまってから、後悔するという可能性は十分にあり得るが(この理由で、絶望的に後悔している人を見たことはないけど)、決断を先送りにしたことで、大学院に行くのが難しくなって後悔することもまた同じようにあり得る。
アメリカで博士課程に進む学生の2分の1ちかく(厳密には2分の1ではないが)は、博士号をとらずに大学院を去るという。
海外出身の学生の場合や女性の場合(人文・社会科学系に限る)、修了率は少し上がるらしいが。
これは結構恐ろしい数字だ。いま自分が「博士課程に行って、○○(教授とか先生とか政治家とかいろいろ)になるんだ!」という意欲にあふれていたとしても、ざっくりいうとその目標が達成できる確率は2分の1、という具体的な想像を可能にするから。
僕も、大学を卒業するとき、結構この数字が気になった。
仮に大学院が、半分の学生をふるい落とすほど競争の厳しい場所だったら、自分は生き残れないだろう。だとすると、貴重な数年間を無駄にする可能性が高い。
僕は、「競争の結果、半分は失意のうちに大学院を去る」というイメージをもっていたことになる。
博士課程進学後10年間の修了率(http://www.phdcompletion.org/information/executive_summary_demographics_book_ii.pdf) |
しかし、必ずしもそんなことはない、ということをここ数年のあいだに発見した。
やめる動機というのは複雑で、たしかにお金がもらえなくなって失踪する人は多いが、その場合でさえ、後悔という感情につながるかは、人によってばらつきがある。
他にやりたいことが見つかったとか、家族と一緒に住みたいとか、アムウェイにはまっていなくなるとか、「人生いろいろ〜♪♪」である。
本当にそんなにやめるのか?
体感的観測としては、2分の1という数はかなり事実に即していると思う。
僕と同じ年に、ハワイ大学マノア社会学村に来た博士課程の学生は4人しかいなかった。
同級生たち(博士課程)は、今日までに全員やめた。逆に、修士学生5人のうち4人が博士課程に進んだ。他の学年や、同じ寮に住んでいた他学部の学生を見ていても、似たり寄ったりである。
ちなみに、僕の学年の博士学生はなぜやめて、何をしているかというと。
- アメリカのニューイングランド方面から来た優等生女子Aさん→くわしくは知らないが、自分が勉強しようと思っていたことが、やってみたら少し違うことだった。あと学部時代からの奨学金の返済、などの事情があった模様。修士号をとってやめて、大学の事務系のスタッフとして就職した。結婚したり、趣味をしたり、なんか人生楽しそう。
- アメリカ東南部から来たパーティガールBさん→Bさんも、勉強しようと思っていたことが、やってみたら思ったのと違ったようだ。性格的にも、ずっと座って考え事をするのはしんどかった模様。修士号を取ってやめた。何の仕事をしているのかは知らないが、毎週のように風光明媚な場所でキャンプしていて楽しそう。
- ハワイ出身の軍人C君→博士号をとったらアメリカ軍で出世できるといっていたが、いつの間にか失踪していた。なぜやめたのかは知らない。軍隊で普通に働いているのではないかと思う。
- アニキ→以下に詳しく解説。
僕が大学院の初期にとてもお世話になったアニキという人がいる。アニキは中国出身で、アメリカの他の大学で修士号をとってからハワイにやってきた。当初、すごく期待されていて特別な奨学金をもらっていた。
しかし、社会学にあまりなじめず、苦悩していた。このへんはなんともいいようがないが、能力の問題ではなく、ものごとの考え方や政治的思想、振る舞い方が社会科学系にいる先生や学生と全然あわなかった。
僕とアニキが共にお世話になっていた先生も、アニキのことを心配していて「頭はいいし優秀だけど、社会学には向いてない。ビジネススクールに行った方がいい」といっていた。一時期この問題を巡って、二人は険悪なムードであった。
結局、アニキはハワイ村をやめて、中西部の別の大学の社会学部に行って、そこの博士課程で数年がんばったのだが、やはり社会学にはなじまなかったらしい。
しかし、その間に、社会学部で働きながら、同じ大学で統計学の修士号をとった。1年くらい仕事を探して苦労していたが、最近アメリカの超大手の金融機関からデータ・アナリストとして採用されたらしく、喜んでいた。
僕もうれしい。
アニキには惑星科学みたいな難しいことを勉強していたルームメイト、Gがいた。Gはまさに聖人で、よく一緒にサーフィンに行っていた。その彼もアニキが去った1年後にやめた。
Gの場合は、指導教官があまり面倒見のいい人でなくて、なおかつインド出身の方で文化的・言語的な問題がかなり大きかったようだ。ハイキングをしているときに、「全然話が通じないから、ヒンドゥー語を勉強しようかと思ってる」と真剣に相談されて、ちょっと笑ってしまった。
それに加えて、家族の問題や、自分の奨学金の返済などの心配も重なり、ハワイを離れることにした。
カリフォルニアに移って、以前在籍していたNASA系の研究機関で働いているが、仕事は楽しいという。給料も全然いいみたいだし。落ち着いたら近くの大学院に編入したいといっていた。
G氏のこういう感じのバイクでよくハイキングに行った |
やめるのは悪くない
やめる理由は様々。
体感的には、一番多いのは、生活苦である。もしくは、「向いていないと思った」というケースや指導教官の問題、またはそれらのコンビネーションの気がする。
辞めたとしても、大学院で学ぶことによって、幸せになる場合もある。もし「向いていない」なら、それはそれで、「自分がどういう人間なのか学べた」というポジティブな側面もある。やめても、自分が希望するような仕事が見つかっている人は多いと思う。
大学院にいる人は、ちょうどこれくらいの歳の人が多い。
今やっていることをやり続けて、本当に意味があるんだろうか、ということを考えるのは大学院生だけでない。たまたまそういう時期を生きているのだと思う。それに加えて、大学院にいると考え事をする時間がたくさんあるので、考えすぎてしまう環境にもある。
やってみないとわからない部分が多いのに、まわりのひとが、大学院に行こうとする人にやたらと、進学をやめるよう言うのは謎だなと思っている。これを大学院不幸言説と呼び、これに、たとえば2分の1というような数字が根拠を与えるが、これについてはまた別のところで。
大学院にいくことによって、つけない仕事というのはでてくるが、逆に可能になる仕事というのも出てくるし、「大学教授一直線」という感じで肩肘張る必要はないのではないだろうか。そこで学んだことを生かして、できることをやればいいし、と僕はのんびりしているからそう思うのかもしれないが…。
歳が早いうちに始めれば、途中でやめるという選択肢がある。
実際に来てしまってから、後悔するという可能性は十分にあり得るが(この理由で、絶望的に後悔している人を見たことはないけど)、決断を先送りにしたことで、大学院に行くのが難しくなって後悔することもまた同じようにあり得る。
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