ポットラック(持ち寄りパーティー)の社会学

トランプ氏の大統領令の連発によって毎日気が休まらない。ここの寮に住んでいるイランやスーダン国籍の人たちはどうなってしまうのだろうか。

ポットラックという難問

アメリカには、というかハワイにはポットラックという一人一品持ち寄ってのパーティーがある。ハワイではむしろ主流だ。ポットラックは難問である。誰が何人くるか、そして他の人が何を持ってくるかわからないという盲目状態で自分が持って行くものを決定し、パーティーの楽しさを最大化しなければならないきわめて複雑なゲームだからである。ここではポットラックにおける諸問題を限られた私の経験から整理し、どうしたら我々はより良いポットラックをすることができるかについて(なんちゃって)社会学したい。



「男性的な男性」問題

ポットラックが社会学的に興味深いのは、誰が何を持ってくるか(または持ってこないか)はジェンダーや人種、社会階層などに強く影響されているからである。その最たるものが「男性的な男性」問題だ。

パーティーや食事会で何よりも悲しいことは食べ物が足りないことだ。日常生活でこれほどわびしい気持ちになることは他にあまりない。十分な量の食べ物が用意されていること、そしてメインディッシュとなるような食べ物があることが何より大切である。

ここでジェンダーが問題になる。私の過去数年の観察によれば、特に学生のポットラックでは、ポットラックの参加者に独身の「男性的な男性」a.k.a. ブロ(brother)が多いと、1) 全員ビールを持ってきて食べ物がない、もしくは、2) 誰もなにも持ってこなくて食べ物がない、という状況に陥りがちである。「男性的な男性」は往々にして料理ができない。



きつねの集い問題


ここでの含意は「女性」は料理ができるということではない。もちろん男性よりも女性の方が料理をすることを強いられているから数の上ではできる人が多いかも知れないが、「女性」が多いポットラックではあまりにも多くの人がデザートを作ってきて食べ物がないという状況を目撃したことがある。

時にビールしかなく、時にカレーしかなく(誰もご飯を持ってこなくてカレーをスパゲティにかけて食べたポットラックもあった)、時には白米しかない。それがポットラックの中心的問題である。これをきつねの集い問題と呼ぶことにする。持ち寄りパーティーでは、みんなおいなりさんを持ってきてしまう「きつねの集い」が起こりがちだとする日本の主婦のインターネット上での告発から学んだ。パーティーには同じような社会属性の人が集まる傾向があるので、同じような発想になりがちだ。



フリーライダー問題


皆がわびしい気分にならないようにするため、ポットラックへのただ乗りを許してはならない。しかし、これはきわめて難しい問題である。社会学の難問の一つにマンサー・オルソンという経済学者が唱えたフリーライダー問題がある。オルソン風に考えると、ポットラックには何も持ってこないで、他の人の作ったものを食って黙って帰るのが最も合理的である。お金や努力、時間を使わずとも結局自分は食うことができるので、システムの恩恵だけを受けることができるからである。

オルソンはフリーライダーが社会集団や組織の崩壊、社会運動の失敗を引き起こしかねないと考えたが、たしかにこれはポットラックを破壊しかねない行為である。ハワイ大学に留学中のポットラックオーガナイザー、大城章乃さん(25)は、「作っているときからポットラックは始まっているんだと思います。みんなのことを思いながら作る時間が大切」とフリーライダーたちを牽制した。

私の経験と他の人への聞き取り調査の結果からいうと、フリーライドするのは白人アメリカ人男性が多いという仮説ができる(これは誰がなんといっても断じて偏見ではない)。



人種と正統性問題

ハワイに来た当初、ポットラックが何か知らなかった私は、持ち寄りパーティーに持って行っても恥ずかしくなく、かつ気取り過ぎてもない食べ物は何だろうかと日夜思案し、あるパーティーにスパニッシュオムレツを作ってワインと一緒に持って行った。これはミドルクラス日本人の視点からするといい選択のように思えた。しかし、それをテーブルに置き、「これはスパニッシュ・オムレツです」と言うと、「でもあんた日本人でしょ?」と言われたのである。ショックだった。スパニッシュ・オムレツはスペイン系の人が持ってくるべきものであって日本人なんだから寿司とか刺身とかもってこいということである。

これをレイシズムと糾弾することは簡単だ。しかし、問題が複雑なのは自分も韓国人の作った寿司とかタイ人の作った味噌汁とかをどこまでありがたがれるかというと疑問が残るからである。というか、正直何を持ってきとるんじゃと言いたくなってしまう。チジミとかタイカレーとかそういう私にはつくれない「本場」ものを持ってきてくれよと。つまりポットラックは文化の正統性の問題でもある。

難しいのは、みんなが求めているのは彼・彼女らが知っている日本食だということである。意外と人間は自分の知らない食べ物を食いたがらないもので、たとえば手巻き寿司とか他の人が見たことない食べ物を持って行くと誰も食べないのである。求められているのは、あくまで「本場の」カリフォルニア・ロールとかサーモン寿司とかみんなが思う日本食である。実際には「本場」にはそんな食べ物は存在していないわけだが。これは他の国でも同じで、韓国で人気あるからと言って韓国人がジャジャン麺を持ってきてもピンとこない。

ポットラックの課題は社会正義の追求ではなく、楽しくパーティーすることなので、ここではステレオタイプに憤るよりも、みんなが食べたがっている「本場の」食べ物を提供することが大切なように思う。



格差問題


ポットラックは過酷なゲームだ。我々は皆で楽しい時間を過ごしているようなふりをしながら、他の人の持ってきた食べ物を見てその人の文化的洗練度を値踏みしているからである。現代社会学を代表する学者、ピエール・ブルデューは、美や審美眼は普遍的なものであり、あくまで自然なものだというイマニュエル・カントの主張を批判した。美というのは他者の無知を笑い、自分の特権を表明し、自分と自分以外の人間には超えられない線が存在するということを証明するための競争なのだという。ポットラックはこの競争が起こる空間である。

ポットラックに間違ったテイストのものを持って行く、スーパーで買った出来合いのものを持って行く、ワインではなく労働者階級のビールを持って行く、ミドルクラスの上流階級へのあこがれが投影された食べ物を持って行くとバカにされてしまうのである。なので、ポットラックは内在化された社会階層がよりわかりやすく表明される残酷な場でもある。あー、やだやだ。

結:よりよいポットラックにむけて


と、また長くなってしまったが、誰がホストで誰がゲストかを決める境界が曖昧で、パーティーがめちゃくちゃになりがちというのが、ポットラックの面白さであり、問題である。陳腐ながら今後への課題を挙げるとすると、

  1. 多様性は大事。いろいろな人が集まることできつねの集い問題を回避できる。 
  2. フリーライダー問題は避けられない。一人一人が少しずつ多めに作るようにしよう。 
  3. ステレオタイプに憤らずみんなが食べたいであろうものを用意しよう。ただし、エスニックすぎるもの、「本物」すぎるものには要注意。 
  4. 他の人の食べ物を笑ってはいけません。ジャッジしないように最大限の努力。また食べ物を作って持ってきてくれる人の労力に感謝。 
最終的には、ポットラックは楽しくやるためにやるのだという基本に戻ることが大切なように思う。時間があるときにまたポットラックにおけるベジタリアン、ビーガン、ハラール問題についても書きたい。

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