シカゴから約100年と6,800km:ハワイ社会学

ハワイ社会学

社会学は、激動の19世紀から20世紀ヨーロッパで芽吹いたとされる。太平洋の真ん中にポツンと、そしてのんびりと浮かぶハワイとは相当縁遠く感じられる。 しかし、ハワイと社会学のつながりは意外と長い。

ボストン大学の教授、ジュリアン・ゴーによれば、アメリカで最初に提出された社会学の博士論文は、1893年—くしくもハワイ王朝がアメリカ政府に乗っ取られたその年—に、コーネル大学に提出された『The Making of Hawaii: A Study in Social Evolution』というものだという。

ここでは、ハワイ唯一の研究大学、マノア村に注目して話をするが、ハワイ大学創立から13年後、そしてアメリカ社会学会の創設から15年後の1920年に、ハワイ大学の社会学部は誕生した。

現在アメリカ社会学のトップ校であるハーバードの社会学部が1930年代(当時はSocial Relationsという学科名だった)、UCバークレーにいたっては1950年代に創立されている。こんにちのイメージに反して、ハワイの社会学は遅れてやってきたわけではない。


マノア村、1926年

教科書では、アメリカ社会学の制度的な基盤が最初に整ったのは、シカゴ大学だったと言われることが多い。同時期にコロンビア、イエール、デュボイスのいたアトランタなど様々な場所で、アメリカ社会学を確立しよう、という動きがあった。

シカゴの社会学部は、大学自体の設立とほぼ時を同じくして、1892年に、アメリカで最初の社会学の教科書を出版した男、アルビオン・スモールを中心に立ち上げられた。スモールはまた、アメリカを代表する社会学雑誌American Journal of Sociologyの創刊にも尽力した。

しかし、後に、シカゴ学派と呼ばれることになる、シカゴという都市を舞台に、さまざまな方法論をもちいた実証研究というブランドを明確にしたのは、ロバート・パーク、ルイス・ワース、ハーバート・ブルーマーといった次の世代のシカゴ村人たちである。

シカゴ社会学ホノルル支店

初期のマノア村は、シカゴ社会学ホノルル支店だった。

パークらがシカゴにいたその頃、シカゴ大学の経済学者だったロマンゾ・アダムスがハワイに来て、社会学部をつくった。そして、そこにシカゴ学派の社会学者たちが参加してきた。

ロバート・パークも、1920年から1年間、訪問研究員としてハワイ大学に滞在し、それ以降も継続して訪問していたそうである。この当時は、ハワイの社会学を卒業した学部生が、シカゴでトレーニングを積み、またハワイに教員として戻ってくるというコネクションがあったようだ。

気温は0度前後でも 、強風で体感温度はマイナス域の「風の街」シカゴからやってきた村人たちが、ホノルルの温暖な気候に感謝したのか、暑すぎると不満を口にしたのかは知らないが、彼ら(全員男性だった)にとってホノルルは魅力的な社会学の「実験場」だった。

パークやルイス・ワースなどのシカゴ村人たちは、当初、生態学における植物と動物の関係になぞらえて、都市を、ある種の生態系としてとらえていた。自然が、動物と植物の様々な関係によって成り立っているように、人間にとっての都市は相互依存的な「生命の綱 (The Web of Life)」であると考えていた。

移民の流入による急速な人口変化と共に多様性を内包したシカゴは、その意味で絶好の「実験場」だった。同時に、アジア人が多く、多様な人種が住むホノルルという都市は、シカゴとは違う意味で魅力的だった。

当時のハワイ大学学長の言葉を借りると、「ハワイは自らの意思でそうなったわけではないが、人種と文化が混ざり合ったヒューマン・ラボラトリーとなった」のである。勝手に、人の住んでいる土地を「ヒューマン・ラボラトリー」呼ばわりするのは現在の社会科学からすると考えられないことだが、当時の空気感が感じられる。


人種関係の実験場

アンドリュー・リンドらを中心に、人種関係の「実験場」としてそのスタートを切ったハワイ大学村社会学部は、その後1935年にSocial Process in Hawaiiという雑誌を創刊する。シカゴの社会学部が、 アメリカ社会学を代表する雑誌、American Journal of Sociologyの本拠地であるように。雑誌のすごさが全然違うのだが(涙)。

ちなみに、AJSとならぶアメリカ社会学の二大巨頭、American Sociological Reviewの創刊が1936年なので、ハワイは決して遅れていない、いや、むしろ早かった。



アンドリュー・リンドの『ゲットーとスラム』Social Forces誌:1930年

1920年代から、1950年代にかけてはシカゴ流の人種関係の社会学がハワイ社会学の中心だった。

アンドリュー・リンドの『ハワイの人々』ハワイ大学出版局:1955年

しかし、シカゴの人種理論、とくにパークの保守的とも言える「Race Relations Cycle」の理論、同化に関するアシミレーションの概念は、さまざまな批判を浴びてアメリカ社会学の中で影響力を失っていく。同時期に、「シカゴ色」も薄まっていく。シカゴでトレーニングをうけたが、ワシントン大学で博士号を取得し、その後社会学部長、マノアの学校長を務めたダグラス・ヤマムラのもとでこの傾向が強まったという。

マノア村の住人たち、1952年

その後、シカゴだけでなく、ハーバード、ノースウエスタン、スタンフォード、ウィスコンシン、ニューヨーク州立大など様々な大学から新しい教員が採用されるようになり、こんにちのマノア村の形に近づいてくる。

アジア太平洋の社会学


そして、この時期は、アジア、とりわけ日本が戦後の荒廃から急速な発展を遂げ、また冷戦構造の中で、アメリカにおけるアジア研究への出資が増加した時期と重なる。こんにちも、ハワイ大学村のアジア関係学生の餓死防止に大きな役割を果たしているイースト・ウエストセンターは、アメリカ議会からの1,000万ドルの出資をうけて1960年に設立された。

70年代以降、日本の国際交流基金やイースト・ウエストセンターの人口研究部門、その他の東アジア地域からの研究費の支援が社会学部のアジアに関する研究を支えてきた。同時に、ハワイや近隣の太平洋諸島に関する研究もさまざまな支援をうけて継続的に行われてきた。

その中で、アメリカ社会学にあって、アジア太平洋地域の研究をその主眼においた独特な村が形成された。こんにちも、教員の過半数がなんらかのかたちでアジア・太平洋地域の研究をおこなっている。

この流れで、マノア村はアメリカ本土だけでなく、東アジア地域から多くの留学生を集め、結果的に多くの卒業生がアメリカ国内だけでなく、アジアのあちこちで教えている。たとえば韓国では、2016年度に韓国社会学会の会長を務めた梨花女子大学のCho Sung-Nam教授が元マノア村人であった。


ハワイの社会学?

ハワイの社会学というと、「ネイティブ・ハワイアンに関する先住民研究がさかんなのですか?」と聞かれることがある。

ハワイアン・ルネッサンスと呼ばれる文化復興運動を経た1980年代以降、ハワイ大学にハワイアン・スタディーズセンターが開設され、のちに修士号や博士号が取得できるようになったほか、人類学や政治学など他の学部にハワイの専門家がいること、また、ポストコロニアリズム思想の流れとアメリカ社会学の折り合いがあまり良くない、などの複雑な背景があり、必ずしもネィティブ・ハワイアンの生徒や研究が多いわけではない。

アジア太平洋の社会学に加えて、犯罪学と人種の社会学、それに量的方法を用いた医療社会学がこんにちのハワイ村の社会学の特徴である。

人種関係の「実験場」として出発したハワイ大学だったが、こんにち、人種の社会学を専門とする教員は2人しかおらず、必ずしもこの分野に強みを持つ学校ではない。

パークがいたシカゴから約100年と6,800km 離れて。いまでは「シカゴ色」は全然ないが、ユニークな歴史を持つマノア村でわれわれは勉強しているのであった。


              
上の内容は、僕がこれまでに聞いた話と下の二つのリンクを参考にしました。
http://www.sociology.hawaii.edu//documents/history.pdf
http://www2.hawaii.edu/~sunki/conference/Hawaii%20Sociological%20Association%7B2010%7D.pdf

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