調査協力者がレイシストだったらどうしよう?

注:この話にはオチらしいオチがありません。

最低賃金でも満足?

先日、ソウルのファストフード店で5年にわたって最低賃金近くの時給で働いている人にインタビューをした。

しかし、聞いて驚いたが、その人は誰もがうらやむこの国の最高学府の出身だ。

大学の同級生の多くは、超一流企業で働いていたり、起業していたりして、いい車や家を所有している。

一方、自分は、4年間大/中/小さまざまな企業に応募したにもかかわらず、仕事が見つからず(大企業ではインターンや留学の経験、中小企業では実務経験が必要だが、彼にはその両方ともないという)、最低賃金のアルバイトで働いて、アパートメントも借りることができない。先行きに不安を感じている。

しかし、彼が言うには「時期によって違うけど、ユニオンの活動をしたりして、まぁ自分の人生にはかなり満足している」のだ。

まわりからすると、「勉強しまくって苦労して超難関大学を出たのに希望するような仕事がない人」でも、当人たちはそうは思っていない、ということがよくある。


ソウルこうがい

これを、「自分の人生を正当化しているに過ぎない」と解釈することもできる。しかし、
最低賃金で働いていても、実際に「自分の人生にはかなり満足している」ということはあり得る。

僕も、まわりからみると「27歳にもなって定職もなくぶらぶらしている人」だが、自分ではあまりそういう風には思っていないし(少しは思っている)。

そもそも、わざわざ時間を割いてもらって話を聞かせてもらっても、「あれはああいう風に言っているだけで、実際には本人だってそうは思っていない」と、決めつけてしまっては、調査に協力してくれる人の時間も、僕の時間も、単なるムダである。

調査協力者がレイシストだったら?

しかし、解釈の対立が、本当に問題になることがある。

修士論文のために、日本の右派市民運動の人たちの活動を見学したり、インタビューをしていたとき、調査に協力してくれた人たちが、ちょっと書くことも憚られるようなとんでもない罵詈雑言を街中で中国籍や韓国籍(と、彼/彼女らが考える)人にあびせたり、カフェでインタビューしていても、周りの目が気になってヒヤヒヤしてしまうような暴言を連発して、「まいったな…」ということがおおかった。

しかし、インタビューに協力してくれた人たちが、自分たちのことを「レイシスト」だと思っていることは少なかった。もちろんレイシストを自称して憚らない人もいたが。

むしろ、「他の奴らがやらないから、社会にとって大切なことを自分たちはやっているんだ!」という使命感に基づいてそういう行動をしている人が多いのである。本人たちがそう考えている以上、それは真面目に取らなければ、話を聞いている意味がない。


デモにて

しかし、他人に罵詈雑言を浴びせながら「社会にとって大切なことをやっている」と考えるのはなんとも理解しがたい。


それゆえ、「こういった状況をどう書くのか?」という問題が生じる。「聞くに値しない主張」だとこき下ろしたほうがいい、という考えもあるのだが、そもそも、聞いた話を一旦真に受けるという姿勢がなければ、インタビューの意味がなくなってしまい、単に僕が書きたいことを書いているだけになってしまう。

That's Not What I Said! 

社会学見習いには新鮮な問題でも、こういうことは、結構よくあるジレンマのようだ。たとえば、キャサリン・ボーランドという民俗学者が「語りのレベル」という観点からおもしろい話をしている

ボーランドは、1944年の夏に、彼女の祖母が行った競馬での出来事を祖母から聞き(語り①)、それを基にして、「男性中心の世界で女性のオートノミーを求める強い女性の話」という(語り②)ストーリーを、主にフェミニスト民俗学者が読むことを想定して書いた。


けいば

しかし、それを読んだ祖母から「私はそんなこと言ってない!(That's not what I said!)」と怒られる。ボーランドの祖母からすると、フェミニズムについて考えたことなんて一度もないそうで、
語り②は完全に孫による解釈の産物。彼女自身の経験とは関係がないというわけである。

「レイシスト」に関しても同様で、上に書いた調査をしていたころ、ちょうど安田浩一さんの『ネットと愛国』という本が出て、本はものすごく緻密な観察に基づいた労作で、僕が話を聞いた人たちの中にもそのこと自体を評価している人は多かったのだが、安田さんによる、彼らの描写の仕方に憤っている人の話もしばしば聞いた。

「書く力」問題

これらの問題は、「書く」という力から生じる問題なのではないかと思っている。聞いてきた話をどのように「書く」のか、それが僕の裁量にゆだねられている。そして、話を聞かせてくれた人には、それを決定する力はない。聞かせてもらった話のどの部分を強調するか、なにを省略するかを決定する力がなければ、そもそもこの悩みは生じない。

僕が生まれるよりも前に、人類学者のクリフォード・ジェームズは、この力を「エスノグラフィック・オーソリティ」と呼んだ。それに対して、彼は、調査協力者の声を、それ以前の時代のエスノグラフィーよりも強く反映させるようなやり方を推奨する。

たとえば、上のボーランドの件では、祖母の意見を盛り込み、お互いに学びを得て、お互いに納得するような文章に仕上げることができたのらしい。しかし、そういうことは本当に誰でも可能なのだろうか?

クリフォードやボーランドの例では、調査協力者は力なき人々という状況を前提としている気がする。確かに、「書く力」という点に関しては常にそうだが、調査協力者がマジョリティの立場を利用して、マイノリティを抑圧していたり、自分の私利私欲のために世界経済を混乱におちいれても悪びれないウォール街のCEOたちだったり、ということはあり得るわけで、そういうときにはどうしたらいいのだろうか?

もちろん、個人の問題ではなくそこにある文化やシステムの問題として書くにしても、それを読んだ調査協力者が、なにを感じるかというのはまた別の問題である。それが必要であることは重々承知しているつもりだけど、わざわざ時間を取って調査に協力してくれた人たちのことを、その人たちが納得しないような形で書くのは、人間として正しい行いなのか、という疑問もある。

一つの解決法として、自分が共感できない人たちについて書かない、というやり方があるという。キム・トールベアーという学者は、遺伝子の多様性について研究する非原住民族の科学者たちについて研究していたとき、彼/彼女らに十分に共感できず、自分が話を聞く人たちに十分に共感する、というフェミニズムの研究倫理との相反を感じたとのこと。

それゆえ、次の研究では、もっと共感できる人について研究することにしたらしい。僕も結局、博士論文は違うテーマを選んだけれど、結局この問題に対するいい答えはない。

共感を持って書くのは大切だろう。僕の先生もその昔、日本の総会屋の研究をしていた学生が、あまりにも調査協力者に非共感的なので、「そんな姿勢ではフィールドワークはできない」と、叱ったといってたし。

しかし、日本ではよくわからないが、アメリカの社会運動研究では、研究者が自分の共感しやすい運動を調べる傾向があるため、右派や保守系の運動に関する調査がそれ以外の調査に対して不足していたり、他の運動と比べて軽蔑的な分析のされ方が多かったり、ということも指摘されている。

難しい話である。博士論文も、どういうトーンでこうした描写を書いたらいいのか、いろいろと考えないといけない。

と、いうオチのない話でした。ちゃんちゃん。

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