英語メンタリティを葬りたい:南大門NYの友達事件を見て考えた

南大門NYの友達事件

韓国の家の近くに看板もない地下1階、アフロのおばちゃんが1人でやっているかっこいい飲み屋がある。

渋い音楽がなぜかいまどきMDプレーヤーから流れている。飲み物はビールと飲むと必ず二日酔いになるウイスキーしかない。

ここは私が、泥酔した有村架純似の可愛い女の子に声をかけられて僕とT君の間で伝説となった「有村架純事件」が起こった現場でもあるのだがそれはまたしかるべき時期が来れば話すことになるだろう、と僕は思った(と、村上春樹風にもったいぶってみる)。

この店には問題児がいる。超絶的にタンバリンがうまくて「NY」とデカデカと書かれた紺色の野球帽をかぶった長いドレッドのでっぷりとした体型の黒人のおじさん。絵に描いたようなニューヨーカーなのだがこのNY帽はソウルの南大門市場で500円で売ってたやつでこの人は英語はうまいけどブラジル人だ。

こいつは「人生は音楽だ」とか「すべての景色が絵画だ」とか、いつも何を言っているのか意味不明の岡本太郎話法で面倒くさい。絡まれたくない。

韓国では11月11日をポッキーの韓国版、ペペロの日という。好きな人にポッキーをあげるらしいのでおばちゃんにペペロをプレゼントしにやってきた。すると件の南大門NY男とその子分のブラジル語しか話せない若者、白人とその彼女らしき人物が飲んでいた。

しばらく飲んだ後、白人の彼女が店を出て行き、もう少し後に白人男も店を素早くでていこうとする。

「会計しなさいよ〜」とおばちゃん。「You Know, I'm ×△%@X$×△%@X$×△%@X$×△%@X$」と何を言っているかまったくわからないが一気に英語をまくし立てそのまま出て行ってしまう男。呆気にとられる一同。

「あんたの友達なんでしょ?あんたのところに会計つければいいの?」と南大門NYに聞くおばちゃん。「Can you speak English, please?」と南大門NY。南大門NYは「あんたがあいつに酒を売ってあいつが払わなかったのは2人の問題だろ。It's not my business」と英語論理癖を持ち出す。

なんとも後味の悪い夜になった。



南大門NYと子分

英語メンタリティを葬りたい

安い店だし、ビールなんか6本くらい飲んだって仕入れ値ならたぶん2千円もしないだろう。しかし問題は、英語が話せない人間には「英語をまくしたてればしまいよ」と考えているそのメンタリティである。

南大門NYにしても、何年住んでいるのかは知らないがその程度の韓国語もわからず、それを恥ずかしいと思うどころかむしろ開き直って「英語を話せ」というメンタリティである。しかもおばちゃんは全く英語を話さないわけではないのである。ただ「ネイティブ」みたいに流暢には話さないだけで。

自分以外の人間も英語を話して当然。そしてその「英語が話せる」というのはネィティブのようにすらすら話せてこそ一人前というような考えが英語メンタリティである。

こういうメンタリティを葬りたい。

英語メンタリティの弊害


こういう考えがあるから英語が使えないだけで何か人間として劣っているような気分にさせられるし、逆に例の二人のように英語が話せるだけで何か優れているかのような勘違いがおこる。

最近では同宿のT君に某出会い系アプリで知り合った白人女性から連絡が来て、韓国語で「アニョハセヨ」したところいきなり「Can you speak English?」と言われたという事件もあった。そんなに英語を話したかったら「韓国こないで実家でプレッツェル食っとけ」という話である。T君は「Yeah, of course!」と返信していたけど。

また、こういう考えがあるから「英語ができる」ためにはネイティブみたいにスラスラ話せないとダメだということになる。そもそもなにが「ネイティブっぽい」のか、説明しようとしても無理である。中国系アメリカ人の英語をわざわざまねている日本人はあまりいないだろう。それも「ネイティブっぽい」のに。しかしわれわれの脳内には空想の白人が話す「ネイティブ英語」がこびりついていて、英語メンタリティのもとになっている。

外国語とはそういうものなのだとこれまで思い込んでいたのだが、韓国語を少し勉強して考えが変わった。もちろん上級者からすればそんなことはないのかもしれないが、ほとんどの人にとって韓国語は「話せたらすごくいいけど、話せなかったとしてもこの世の終わりではない」という類いの言語だ。英語とは違う。だから勉強していてプレッシャーが少ないし、楽しい。

韓国語がうまくできなかったとしても、英語ができないときに感じるほどの劣等感を感じない。逆に会話ができる喜びも大きい。英語が少し上達しても「これでようやく真人間に一歩近づいた」という感じで一歩先を行くような達成感はない。

英語のプレッシャーは外国語のプレッシャーではなくて、英語に特有のプレッシャーなのではないかと考えるようになった。

しばしば「日本人は英語を話せない」というけど、日本で高校くらいまで卒業していたら知っている単語数は結構な数である。なのでペラペラしゃべれなくても、単語の羅列だけで普通の会話くらいはできるはずである、なので話す意思があれば「話せる」という風に考えてもいいんじゃないかと思う。

しかし英語メンタリティのせいで「自分は話せない」と思い込んでしまい、それを逆手に取った
南大門NYのような「話したいことがあるなら英語で言ってみろ」的な発想を助長することになってしまっている。


適当な写真がなかった

落陽しろ英語メンタリティ

もちろん韓国や日本に住んでいて、英語が母語でも英語メンタリティではない人がいるのは知っている。それに英語ネイティブだけが英語メンタリティを持っているわけではない。

①ネイティブ人の一部は当然英語メンタリティを持っていることは説明不要。


②英語が話せるという自負がある非ネイティブは自分の努力で英語をしゃべれるようになったという思いから、「英語を話せない」非ネイティブをバカにするような傾向がある。

これはいわば英語界における「名誉白人」の立場であり、タチが悪い。僕も絶対名誉白人化しないよう気をつけているつもりだがあいつは調子に乗っている名誉白人だと思われているかもしれぬ。逆に、今さらそんなことを言い出すのはお前が英語できないからだと思う人もいるだろう。

③自分は英語ができないと思う非ネイティブのほうこそ英語メンタリティの思い込みは強いのかもしれない。

僕もいまだ英語は苦手というか、日本語ほどリラックスして話せない。RとLとか発音できないし、多分一生できるようにならないと思う。

僕も英語メンタリティに心を支配されて、やっぱり外国語なら英語だろという単純な考えで20代の貴重な時間を無駄にしてしまった気がする。違う言葉をもっと勉強しておけばよかった。

こんにち、英語話者の四分の三は英語を第二外国語として使っているといわれる。英語なんか適当に通じる程度にやっとけば十分だ。四分の一のネイティブみたいに話さなければならないという考えは不毛だと思う。


英語メンタリティは落陽しろ。

英語ができれば「グローバル」な人だというのは嘘だということも書きたいと思ったが、それはまたしかるべき時期が来れば話すことになるだろう、と僕は思った(と、村上春樹…以下略)。

漢江に落ちる陽

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