若者と政治:ご恵投のよろこびと富永京子さんの『社会運動と若者』

なぜ若者は政治的にならないのか?

「入院になりました、、4日だって、、まじ会社どうしよ」というラインのメッセージが家族グループに送られてきた。社会人2年目の弟が過労が原因と思われる病気で入院した。同じ下宿のT君と連日「韓国語練習」a.k.a. 「はしご酒」している兄とは大きな違いだ。

かと思うと、今インタビューしている韓国の若者たちは難関大学を出ても1年から3年仕事が見つからなくて悩んでいる。こっちに来てから「本当に就職できるのかが今の一番の不安ですね」という話をしょっちゅう聞く。「就職活動で人生の1年6ヶ月を無駄にしてしまった…」と、ある女性がつぶやくのを聞いて悲しいなーと思った。

僕と同じ、もしくはそれより下の世代 (a.k.a. 若者)は、人類の歴史で最も物質的に豊かな世代といっても言い過ぎではない。人類史上最も高いレベルの教育を受けた世代でもある。それなのに仕事がなかったり、逆に病気になったり死んだりするほど忙しかったりと、あまりハッピーじゃない。

上の世代と比べても非正規雇用の人が多かったり、失業率が高かったりと社会のひずみの影響をうけている人が多い。実際に彼女/彼らはそうした状況に悩んだり怒ったりしている(はず)である。若者たちが特定の政治的意見を持つグループになれば、国の政治を変えるような大きな力になるはず。にもかかわらず、どうもそういう感じにならない…。

なぜか?

「ご恵投」のよろこび

我輩は社会学者見習いである。(それゆえ)答えはまだない(バカヤロー)。そんな折、先日、立命館大学の社会学者、富永京子さんから「社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治」という新しい著書をいただいた。


富永京子さんの『社会運動と若者』

フェースブックとかブログとかを見ていると、日本の学者の人や大学院生は結構他の人から著書を「ご恵投」いただいている(他の人から本をもらうことをこう言うらしい)、僕はあまり「ご恵投」いただいたことがなく、いつか「ご恵投」いただきたいと思っていたのだが、「ご恵投」いただく機会もなく、やはり自分は「ご恵投」には縁のない人間なのか…と思っていたら富永さんから「ご恵投」にあずかり、マジ感謝である。

「ご恵投」いただいたからには、読み込んできちんとした書評を書かせていただこうと思ったのだが、「韓国語練習」で心と内臓が疲れているのでこのままだと完成までに30年くらいかかりそうだ。なのでしょぼくて申し訳ないがブログのネタにさせていただくことにした。

社会運動と若者

近年、世界中で同時発生的に「若者」の社会運動が起こった(日本だとSEALDSによる一連の活動など)。富永さんは、こうした運動の特性が「どれほど若者の特徴によるものなのか?」という興味深い問いをたて、当事者への聞き取り調査をもとにして答えている。


若者の社会運動

「若者の社会運動」はなぜ「若者の社会運動」なのか?富永さんによれば、ここでの「若者」は「特定の世代や属性を持つ」人たちではなく「社会運動を形成するサブカルチャーの一種」である。年齢が若い人がやっているから「若者の社会運動」なのではなく、「若者的な」文化によって特徴付けられる運動が「若者の社会運動」なのだ。


オキュパイ運動

富永さんによれば「若者は政治的か?」という問いそのものがおかしい。「政治的」とされるもののあり方がそもそも異なるからだ。こんにちの若者は、個人化された社会を生きていて、自分の周りの人たちが自分とは異なる存在であることを出発点として政治に関わるほかない。この本は、自分とは異なる人々との連帯を可能にするためにある仕組みを社会運動におけるサブカルチャーという観点から描いている。富永さんの分析は若者たちの普段の生活(日常)と社会運動の場(出来事)の往復に注目し、個人が連帯しようとするその戦略を明らかにする。

ハワイ大学の後輩のAさんはいつも、「自分のまわりに政治の話ができる人がいなくてつまらん」と言っている。たしかに、自分のことを考えてみても、ハワイ大学にいる日本人の若者や、他の友達のあいだでは(大学の友達除く)政治について話すのがいけないことのような雰囲気すら漂っている。なぜかよくわからないのだが。富永さんの分析はこの問いに答えを与える。ざっくり言うと、それは一つの政治との関わり方の作法であって、彼女/彼らが「政治的でない」ことを意味しないのだ。

みんなが気になる問いを問い(ダジャレじゃないよ、語彙の不足)、学術的にも理論と実証両方に貢献する議論をしていて、社会学見習いはこういう話の作り方から学ばないといかんなーと思った。本の最後にでてくる富永さん自身の話もいい。もっと本論のなかで長めに読みたかったくらいだ。

賞賛だけだと安倍晋三と百田尚樹の奇妙な友情のようで、金をもらってるんじゃないかと疑われそうなので、終わる前に2つ疑問に思ったことを書いておきたい。

「若者」を文化だけで語れるか?

「若者」は年齢ではなくて共有された文化として定義されるべきという主張が一番興味深かった。これを読んだとき頭に浮かんだのが、アメリカ社会学会の前の会長、ルース・ミルクマンが、オキュパイ運動の起こった街ニューヨークで行ったアメリカ社会学会総会の会長スピーチ


ルース・ミルクマン

自分のキャリアの総決算ともいえる会長スピーチのトピックに選ぶくらいだから、若者と社会運動という視座の重要性は、アメリカ社会学で一番偉い人公認といってもいい。しかし二人はアプローチが異なる。

ミルクマンいわく「今の若者は人類初めてのデジタルネィティブ世代で、大学進学率が高くてめちゃ勉強している、にもかかわらずいい仕事がない」。こういう特徴がこの世代に特有の世界観をつくりだし、それがオキュパイやBlack Lives Matterなどの新しい社会運動を生み出したという。「若者の社会運動」の戦術的な特性については富永さんの分析と重なる部分もあるのだが、一つ目の点が決定的に違うように思う(終章の一番最後で富永さんはミルクマン的な見立てを否定している)。

「若者たちはすでに年齢や世代によって規定されない」とする富永さんに対して、ミルクマンは、「若者」には世代的な特徴があるのだ!というベタな議論をしている。僕も「若者」を「若者」たらしめる世代内で共有された構造的な要因というのは実際あるんじゃないかと思う。例えばデジタル・ネィティブとか、労働市場の状況とか、経済発展のステージといった要素である。社会構造と文化の組み合わせを見ていく必要があって(もちろん富永さんも、経済的に自立していないなど、若者という存在に共通する構造的な制約などには言及している)、文化だけで「若者の社会運動」を語れるかという疑問は残るなと思った。

日本の「若者」はどれほど日本的か?

やや脱線気味になってしまうが、僕が今韓国で調査をしているので、富永さんの発見したことが、どれくらい日本以外の「若者の社会運動」にあてはまるのか、あてはまらないのか、が気になった。当地に住む日本の若い子たちからは「政治参加に関しては日本人は韓国人を見習って欲しい」という声が聞かれるくらい、韓国の若者のほうが自然に政治について語り、実践しているように見える。

日本で生まれ育って現在ソウルにある大学に通う女性は「日本の友達と違って、こっちの子たちは政治の話とそれ以外の話の分け目がないんです」と言っていた。パスタの店の話をしていた次の瞬間に話題が政治になったりするんだって。

ここには多分にステレオタイプが含まれているが、印象論的な観察に基づくと、一方では、富永さんの「日常/出来事」という考え方は日本ではかなり有効っぽいといえる。他方では、韓国における日常と出来事の境界のあり方は日本のそれとは少し違うのかもしれないとも考えられる。この辺は大変興味あるなー。

しかし、著者が関心を持っていないことを持ち出してあーだこーだいうのはいいことではない。これは単なる私のつぶやきである。

オススメ

いずれにしても、富永さんの本、大変面白かった。社会運動に興味があるハワイ大や韓国の人にもオススメしておきます。また、友達と「政治の話ができない」と悩む若者や、「若者は政治に関心がない」とぼやく人たちに広く読まれてほしい。いや、そんなことより、一度言ってみたかった「ご恵投いただきました」を言うことを可能にしてくださった富永さんに感謝である。あさひなの「今回の人生でやることリスト」が一行短くなった。

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