「学会」に意味はあるか?〜ポルトガル大航海編②

村人会議では何をするのか?第一に発表をする、第二に発表を聞く、第三に村人と知り合いになる。非村人からすると、そんなことして意味あるのか、という疑問がわくと思う。わたし自身、村人歴が浅いので、学会に本当に意味があるのかよくわからない。 先輩村人に聞いてみたいところである。以下、村人見習いの私の思うところである。

会場のUniversidade nova de lisboa

発表をする→(意味=×または△)

一応ポルトガルでも発表してきた。おきまりの流れとしては、まず発表者が発表する。それに対して、コメンテーターがコメントし、そのあと居合わせた村人から質問が出る。その後、発表した人のまわりに他の村人がすり寄ってきて、「イヤー発表おもしろかったですー、私も実はこんな研究をしてるんですがー、それで、あのところをちょっと疑問に思いましてね…」といった社交タイムである。

問題はこれに意味があるかどうかである。

いわゆる「リアル科学」系の学問だと発表だけでも業績になることもあるらしい。 社会科学では発表は業績には(ほとんど)ならないので、学会に行っても時間の無駄という感じは否めない。

発表の際にもらえるコメントはありがたい。しかし、しばしば質疑応答の時間が短くてあまり大したコメントがもらえなかったりする。例えば今回は時間の関係上、各発表者一つしか質問やコメントをもらえなかった。また、 大きなカンファレンスだと文脈がわからない人がトンチンカンなことを言ってくることもある。

また、クセの強い質問者(a.k.a.バカ)というのがいて、例えばハワイ大学には、日本に関する発表に必ずやってきて、それが大昔の遊郭の研究だろうが、東アジアの歴史認識の発表だろうが、現代のジェンダー不平等に関する調査だろうが、内容に関係なく必ず「私は戦時中の日本人のパンパンの研究をしてるんですが、パンパンについてはどうですか?」と無茶苦茶な質問をしてくる恐ろしいひとがいる。また、韓国に関わる研究の発表だと、だいたい北朝鮮オタクが混じっていて、「北朝鮮と韓国が統一する可能性は?」というような関係ない質問をしているのをよく見る。

ただ、他の人に理解してもらえるように発表を考えることによって自分の思考が進化するということはある。

発表を聞く→(意味=△)

他の人の発表から学ぶことは多い。しかし、人の研究を聞いても必ずしも自分の研究が良くなるとは限らない。また、発表の質は玉石混合なので普通に論文を読んだ方が効率がいいように思う。

コロンビア大学の人類学部教授だったロバート・マーフィー氏は全身の筋肉が動かなくなる難病にかかり、アメリカ人類学会などの学会に行けなくなってしまうのだが、「キャリアの途中から学会には飲み会以上の意味はないと思っていたのでちょうど良かった」という旨を自身の本に書いている。

学会に行くには多大なエネルギーと時間がかかる。今回リスボンに行って、発表を聞いたり、 ワインを飲みすぎたり、ポルトガルの女性(男性もクリスチアーノ・ロナウドみたいなかっこいい人が多かった)に見とれている間に1週間がすぎたが、行かなければもっと論文を読んだりインタビューをしたりと、研究ができたはず(「はず」であって、行かなくてもしたかどうかはまた別問題)。

他の人と話すことによって、世の中にはすごい人がいるなー、自分も追いつけるようにがんばろう!という気になったり、自分はこういう風にはならないようにがんばろう!という気になったりと、モチベーションがあがるという側面はある。

ポルトガルの海

村人と知り合いになれる→(意味=○)

この辺は私にはまだ経験不足でわからないのだが、村人会議で勢いよく発表し(爆)、自分の分野の先生に名前を知ってもらったりするのは就職などの際にある程度大事なことのようである。あと友達ができるのはいいことである。

学者は流行っているものを追いかける。この流行を決めているのが重鎮村人たちである。アメリカ の社会運動研究を例にとると、私の観察では、数えて15校ぐらいの一流校の先生たちとその生徒が「次の流行」を決めているように感じる。もっと細かくいうと、社会運動の場合、ノースキャロライナ大学チャペルヒル校、ノートルダム大学、カリフォルニア大学アーバイン校、ニューヨーク大学、ミシガン大学アナーバー校など限られた学部の先生とその出身者に流行決定権が集中している。つまり、そのネットワークに入っていれば、学会に行っても行かなくても一流。逆に言えばその中にいなければ学会に行っても一流の仲間入りは難しいように感じる。

しかし、そういう内輪ノリはどこにでも存在していて、例えばアジア研究ではハワイ大学や僕の先生たちの名前が知られているため、たとえば今回のポルトガルのような会議にいくと、社会学などに比べると若干内輪的なバイブスである。内輪にいない人間がその壁を越えるには、流行に一石投じるような論文を書くしかない。しかし、そもそも流行のルールが結局前述のサークルの中で決められていて、なおかつ私のように地理的にも知的にも辺境にいる人間は学会に行って村人と知り合いにならないと流行がわからない。

今回の学会では、社会学と人類学のパネルをオーガナイズしている先生たちが、感情と情動を中心的なテーマに据えようとしていて、それに関する振り返りセッションがあった。ブライアン・マッスミなどの影響を受けて、アフェクト理論と呼ばれるものは人類学のここしばらくの流行の一つである。私も声をかけてもらって参加したのだが、参加者にはこうした流行を無理矢理設定しようという動きに批判的な人もいて、おもしろかった。

そうした流行についていくのに学会は大事だが、廃りの早さを見ていると韓国の飲食業みたいで滑稽でもあるし(チキンが流行ればみんなチキン屋に転業、かき氷が流行ればすぐにかき氷に転業)、内輪ノリは若干醜い感じもする。自分が大事だと思うことを一生懸命やって、それを評価してくれる大人を見つけられるよう努力すればいいのかなと、最近では思うようになった。

タダで旅行に行ける→(意味=◎)


ポルトガルはエスプレッソがおいしかった。またここ数年で一番いい飯を食った気がする。なんといっても学会のメリットはこれにつきると思う。

めちゃくちゃおいしい豚を食べた
名前はわからないがこのイカに何かを詰めたやつもおいしかった。4ユーロくらいと安かった

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