英語で書くという難問(社会学・人類学版)

英語でなにかを書くのは本当に難しい。前回ポットラックの記事を英語版にしてみたけど全然うまく書けなくて落ち込んでいる。私が最初に英語圏で勉強したいと思ったのは、半分は単純に社会学を勉強したかったからだが、残り半分は、英語で書けるようになったら読者が数倍になるんじゃないか…ということは…印税も数倍に!という浅はかな考えからであった。しかし、最初の1年で英語でいい文章を書くことのあまりの難しさに挫折した。

英語という難題はグローバリゼーションの時代に様々な人が直面する問題だ。今日は社会学を勉強する大学院生という私の立場からの英語問題について書きたい。



英語という難問


英語は日本語とはかなり異なる言語だ。それゆえ、時間をかけて読み直しても三単現とか時制とかスペルミスとか超初歩的な間違えをしてしまう。とりわけ、aとthe問題(単語の前にaが来るかtheがくるか、それともなにもいらないか)は難問中の難問である。このレベルの話はネィティブにとってはなんでもないことである。ましてや、いい文章というのはそういった基本的文法の次に来る問題だ。普通の文を書けない人間に良い文章を書けというのは軽自動車を運転できない人間にトラックを運転させるようなもの(軽自動車を運転できてもトラックが運転できるとは限らないのでネイティブでも文章がひどい人はいっぱいいる、というかネィティブでも軽自動車が運転できてない人も多い)。

自分の無能を棚に上げるなと言われるかもしれない。まぁそういう面もあるではあるのだが、これは私だけの問題とはいえない。12歳の時にニューヨーク州に渡り、天下のイエール大学フランス文学科で博士号をとっている水村美苗さんも「母語がこれほど英語と隔たっている人間にとって、英語で文章を書くというのは西洋人には想像しがたいほどに不可能に近い*」と言っている。いまは日本語ですごく面白い小説を書いている水村さんであるが、日本語で小説を書き始めたのは単純に英語では書けなかったからだとハワイ大学にいらっしゃった際に聞いた。僕の先生である韓国人の社会学の教授も、もう70代で十分アメリカで成功してるのだが、「英語で一生苦労してないで、韓国に帰っていたら良かったんじゃないかと未だに思うときがある」と言っていた。

*『日本語が滅びるとき』日本語版が手元にないため英語版から意訳

科学と文学

英語で書くと言っても何を書くのか、それが問題だ。純文学を英語で書くというのはノンネイティブにとってはほぼ生涯をかけた拷問のようなものである。でもメールくらいならパターンを暗記すればそれほど難しくないだろう。私の場合、主に社会学と人類学を勉強している。そしてこれらが私にとっての難問の元凶だ。それはなぜかというと、社会学ではピーター・バーガーが、人類学ではエリック・ウルフがそれぞれ有名なセリフを残したように、これらの学問は「人文学の中で最も科学に近く、科学の中で最も人文学に近い」というなんとも煮え切らない発展の仕方をしたからである。

ざっくりというと怒られるかもしれないが、科学というのは真実の問題で、文学は「真実」が誰にどうやって書かれるかという問題である。科学的な書き方には一定のパターンがあって、それをコピペすればいいのでそれほど難しくないと思う。科学的アプローチのなかでも代表的な実証主義で問題となるのは書かれているその内容であって、「書かれかた」ではないからだ。

一方、人文学的アプローチは科学的アプローチの一つ以上のものを説明することのできる文脈をはなれた抽象的な知識に対して懐疑的だ。この考えでは、知識というのはそれを表現する文章そのものに依存している。つまり、人文学では「どうやって書かれているか」は「何が書かれているか」に負けず劣らず重要な問題なのである。小説のあらすじは、だいたいはざっくり抽象化してしまえば、「人間Aが異性Bにフラれる話」といった感じでそれほど複雑ではないわけだが、重要なのはそれを表現する言葉である。

留学生のジレンマ

そしてこれが問題だ。わたしは英語ではうまく書けないのだから統計とかをやって科学的に書けば楽なのだが、個人的に人文学的に書きたいと思うからである。これが私の直面する留学生ジレンマである。なぜそう思うかというと理由はたくさんあるのだが、かいつまんで言うと、

1)社会科学(というか広い意味では科学全般)の「科学性」はうさんくさい部分が多い。
2)科学者は自分ではあまりお金を生み出さないことが多いため(逆に言えばお金を生み出すことが目的の科学は倫理的に問題がある)、皆様が納める税金にたよって書く。科学者同士にはわかっても他の誰にも理解できない暗号のような言葉でしか書けないというのは問題があるだろう。また、科学的アプローチのなかにはその知識が社会や人の役に立つかどうかをそもそも気にしてないものもある。
3)社会の話から人間の苦悩とかストーリーを除いて科学的に書くとつまらないので読んでいて眠くなってしまう。

と、一方では社会学を科学的に書くことには問題があるように思うのだが、同時に人文学のほうにいけばいくほど、自分の英語能力のせいで、書ける人たちに対して大きく遅れをとってしまう。これが社会科学・人文科学系留学生のジレンマである。

良い文章?

社会学はもともと一部のヨーロッパ人が自分たちの生活を、人類学は一部のヨーロッパ人がそれ以外の人間の生活を書く学問として発展したが、今日その限りではない。世界中の人が、自分の、そして他者の生活について書いている。それも母語ではない言語で。そのときに、「良い文章」の基準が一つしかなかったら、つまり英語を母語とするエリートの基準しかなかったら、それは公平とは言えないないのじゃなかろうか。

ハワイ人がハワイについて英語で書いてその文章をばかにされるとき、日本人が日本について英語で書いてその文章をばかにされるとき、問題は客観的な文章のうまさやへたさ以上の複雑さがある。そのため、この問題は最終的には、「良い文章とはなにか?」、または「良い文章とは誰にとっていい文章か?」という問いに戻ってくるように思う。

一方では、私たちはよりよい文章を書けるようベタに努力する必要があるが、他方では、良い文章の定義をもっと複雑化する必要があるように思う。これは英語を母語とする人への批判ではない。自分の母語が日本語である人間にとっては、日本語を母語としない人が書く日本語の多様性を受け入れられるかという問いでもある。日本語のように難解でなおかつ読者の視線が厳しい言語では英語以上に問題含みだ。

盲目のスーダン人のモハメド・オマル・アブディンさんは日本語でわが盲想という素晴らしいエッセイを書いた。アブディンさんには水村さんが書くようなものすごく複雑かつ妙味のある言葉のチョイスはできないかもしれないが、それでも努力の末に素晴らしく面白い本を書いた。それでも、読む側が水村さんの本を読むのと同じ基準の「良い文章」の定義をアブディンさんの本にあてはめたら色あせてしまうだろう。グローバリゼーションの時代になにかを書くという問題は、書く側にとっての難問であるだけでなく、読む側の意識も試している。

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